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制作メモ
2003. 小山利枝子
「香りの専門誌 パルファム」2003 No.124 [ESQUISSE]欄より

 花を画面一杯に描いたら、ユニークな抽象画になるのではないか…。それは、10数年前のほんの思いつきに過ぎなかった。しかし、花は汲めども尽きぬ イメージの源泉であった。花の形の面白さに惹かれて繰り返し描くうちに、画面 のサイズがどんどん大きくなっていく過程で、ある時、トルコギキョウの花弁の輪郭線が、山の稜線に酷似していることに気がついた。何千年もの自然の営みが 形成した山の稜線と、一週間で枯れていく花弁の輪郭線が酷似しているのは、決して偶然ではない。花を描くことは、花を越えより大きな世界を表現することに つながっているのだと、そのとき私は直感した。以来、花の形の中に、山々、海、流れていく川、移ろいゆく雲等様々な物が見えるようになり、さらにそれら が、月光を浴び、あるいは朝焼けや夕焼けに輝く姿をも呼び起こしていった。

 ところで、花をデッサンしている時は驚きの連続である。描くという行為を通 して花を見つめることで、普段の何倍もの花の姿を発見していく。そして、その姿から導き出されたイメージが次々に飛来してくると、私の眼前に一大スペクタ クルとでもいった世界が展開されてくる。その、情報量 は余りにも多く、デッサンのレベルでは到底表現できるものではない。デッサンは、その時の記憶の片鱗をとどめた、私だけが解読できる、イメージヘの地図の ような物である。つまり、私にとってデッサンすることには二重の意味がある。一つは、自然が生み出した、自分では決して思いつくことができない美しい形を 見つけて画面 にとどめるということ。もう一つは、描くという行為を通して、よりよく対象を見つめることにより発見した形の触発により、自分の中に眠っていたイメージを 導き出していくということだ。そして、デッサンを見ながら、大作を制作していく作業は、デッサンの中にある形を手がかりに、自分の中に眠っていたイメージ をより深く掘り起こしていく作業である。画面 の中に偶然出現する様々な色や形に促され、さらに多くのイメージが引き出され、最終的なビジョンが画面 に立ち上がってくるのだ。デッサンを描くときも、大作を制作する時も、そして、偶然にすべてを委ねる抽象的なドローイングをする時も、私は常に絵画の可能 性を感じている。このプリミティブな、表現方法には、現実には見えない次元の世界を引き出す、魔法の様な力が潜んでいるのだ。

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