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絵画表現の場としての「花」
横山勝彦(練馬区立美術館)

小 山利枝子は、花を描く作家である。しかし花を描くといっても、花の外形を描写 しようとしているのではない。茎も葉もない花は、顔だけが描かれた人間像に似て、まさに花であることによって、花の意味を超えようとしているようだ。顔だ けが描かれた絵画が、特定の人物の肖像であることを止めて、人間というものの象徴となりうるように、彼女の花は、どのような花が描かれようとも、花一般 としてわれわれに迫ってくる。またそれは、首だけが描かれた画像が、それが人間の首であるという合理的説明を超えて、不気味な存在の素顔を垣間見せるよう に、彼女の花は、余りにそれが花でありすぎることによって、人間対植物といった図式では堆し量 ることのできない事物=モノとしてわれわれに提示されるのだ。小山利技子は、花を描くことによって、決して花には限定されないものを、表現しようとしてい るのである。
彼女が表現しようとしているのは、古来から花に纏わりついた象徴的内容といったものではない。薔薇や桜に限らず、花は常に文学的イメージとともに語られ、 生活の中に浸透してきた。しかし、小山の花は、そのような文学的イメージとは無縁である。むしろ彼女にとっての花=花弁は、端的に「かたち」であるだろ う。抑揚のある曲線の集合によつて形成され、複雑に組み合わされた花の「かたち」は、そのなかに線、陰影や色彩 といったすべての造形的要素を含んでいるとも言えるのだ。仔細に観察すれば千変万化の花の姿に、彼女は出会ってしまったのである。
東京藝術大学在学中の小山利枝子は、自分が将来花を描いているとは思いもよらなかっただろう。大学卒業後の個展(1980)では、塩化ビニールのメッシュ を角柱状に設置し、ビニールのテグスを絡ませた作品を発表している。天井から床まである角柱の列は無機質でありながら、透過する照明光によって独特の雰囲 気を形成していた。またその翌年の個展では、30センチ角のメッシュを自由に変形し、どれだけ多様な形が成形できるかを試しているような作品を会場中に設 置している。これらの初期の個展の例でも分かるように、彼女は、非常に観念的で、自分の感覚とモノを制作することを確認していくような作品を発表すること から作家としての歩みを始めているのである。そしてこのような既成の絵画・彫刻といったジャンルに分類することのできない表現方法を探究することは、言わ ば時代のモードであった。しかし、彼女は花と出会うことで他の人とは異なる自分自身の体質と表現を自覚することとなったようだ。「私は花との出逢いによ り、何年も自分に禁じていた、描くという行為を、ごく自然に再開することが出来た」という小山が、花の絵だけで個展を開催するのは1988年以降である。 その後彼女は、花に取り付かれたように精力的に描き続けているのだが、それは、小山にとって花を描くことこそが、絵画を制作することと同義だからであるか らにほかならない。
花とは、先にも指摘したように、造形的な可能性を集約した「かたち」である。その「かたち」を彼女は、大きな画面 一杯に描き出している。小手先の説明的な描写ではなく、身体全体の運動と連動して、花が描き出されていくのだろう。そして彼女自身の内部の「かたち」と花 の「かたち」が一致したところに作品が完成することとなる。このような意味で小山は、花を描きながらも、花を描くことを終局的な目標とはしていないのだ。 巨大に拡大された花弁が、どこか山並の稜線を想起させるのも、この理由によるだろう。内部の「かたち」に表現を与えることから作品を発表し始めた彼女は、 外部の「かたち」である花と出会うことで、絵画の表現力を明確に自覚したはずである。「かたち」を形成することが、絵画の重要な要素であることは、誰も疑 いえないのだ。そして「かたち」の魅惑とその可能性を確信している小山利枝子は花=絵画を描き続けていくだろう。それは、彼女にとって花は、そこに人間を 含む自然と絵画の生命力が総合された場であるからにほかならない。

個展リーフレット

小山利枝子個展
1993年4月16日~5月15日
スカイドア アートプレイス青山/東京



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