HOME BACK

小山利枝子

野地耕一郎

  「日本画」というのではないが、かつて「山種賞」という日本画コンクール賞にもノミネートされた経験をもつ小山利枝子の個展が、京橋3丁目のアートスペー ス羅針盤で6月30日から7月5日まで開かれた。その賞に関係していた私は当時大いに困惑させられたので、この画家とはいささか因縁を感じ、ついつい今回 も観てしまった。キャンバスにアクリルを用いて描かれた大作から小品まで9点は、基本的には花びらのイメージを強く意識させるが、それだけにとどまらない 破調への志向がいくつかの作品から感じられた。例えばそれは、波から逆巻く水蒸気の大きなうねりのようであったり、滝の落下にさからう飛沫の運動のような イメージだ。そしてそれらは、つやつやと絹のように輝いている。アクリル絵具は水溶性だから、その点では日本画に通じているが、決定的に違うのは、他の色 と混合して「光」を表現できることだろう。小山の作品は確かに、豊饒な光が画面全体をたゆたいながら満たしている。しかし、その光の表現を技術的に支えて いるのは、色と色を掛け合わせたり、明度の高い色と併置したりすることによってもたらされるイリュージョンというよりも、むしろ色彩自体に光が変換されて いることによっている。その意味では、岩絵具の触覚値に近いから、やっぱり「日本画」といえるのかな?!

 それはともかく、絵画においては主に、光は色彩として表現されてきたから、その内部に多くの光を含んでいる色彩、という形で、絵画は光を表現する。その 時、その色彩が明るいとか暗いとかはほとんど関係がないし、モノクロームだとかカラフルだとかということも関係がない。例えばモネの紫には光がびっしりと 含まれているが、青木繁の紫にはあまり含まれていないと感じたり、あるいは水墨だけで描かれた近藤浩一路の風景画に、まるで湿った空気に含まれる水分のよ うに光がたっぷりと含まれていると感じるように、それは色彩による画面構築の質の問題であって、色それ自体の明度や明暗、それに近頃はやりの映像的なハ レーションの効果などともむろん関係がない。そこにあるのは、色彩へと変換された光なのだ。こういう仕事をする人を、「光の画家」というのだろう。小山の 作品は、絵画本来の質の高さを示した良い仕事だと思う。
 
アート・トップ 193号(2003年9月号)

小山利枝子展
2003年 6月30日〔月)~7月5日(土)
アートスペース羅針盤/東京



BACK